本日、
昨日叔父が亡くなった事を知らされる。
叔父とは、
直接血縁関係は無いけれど、
わたしは、叔母と仲が良く
叔父が病に伏した2年前からは
日本へ帰国するときは
叔母たちの住む富山へも
足を運ぶようにしていた。
叔父の顔を見ることだけではなくて、
叔父の身の回りのことを
手伝っている叔母の
少しの気分転換になれば良いな、と。
叔父の病状は
「良くなること」は望めず、
砂時計の砂が
少しずつ減っていくのを
見ているような感じだった。
私が不安定な10代だったころ、
彼らは神奈川に住んでいて
泊まらせてもらったりしていたとき、
初めて車を買ったとき、
私生活と仕事のぐちゃぐちゃに疲れて
富山へ遊びにいったとき、
北陸のめちゃめちゃおいしいお鮨を
初めて食べて感動したとき、
そこには、叔父がいた。
それらの日の私は、
今日という日が来ることを
思いもしなかった。
その日々から
だいぶ年をとって
仕事柄、私は
人の死というものに、
常に触れているけれども
いつも、
こころの隅に
しこりのような、
痛みのようなものを感じる。
昨日、居た者が、
今日には、もういない、
もう会える事は2度と無い。
これは、
ヒトとして当たり前の事なのだろうと思う。
そして、
死にどれだけたくさん出会っても、
自分が死ぬときまでも
それに慣れることはないのだろうと思う。
仕事を始めたばかりの頃、
「死」はなるべく見たくないと思っていた。
でも、
今は、
だいぶ歳をとって、
死は生に含まれているものだと。
(ノルウェイの森にも
確かそのような事が、
書いてありましたね。
今は、ほんとうにその言葉の意味がよくわかります。)
すべての息をしているものには
息をひきとる日がくるのだと。
だから、ヒトや動物に出会い、
わたしも相手も生を受けている間に、
どれだけの事を共有できるだろう、
できれば、それは
痛みや傷や苦しみや憎しみよりも、
優しさや、暖かさや、笑いである方がいいなと思う。
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